四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。
雲南
鉄とともに生きる歴史の村
~「最後の山子(やまこ)」として~
日本で製鉄が行われるようになったのは、古墳時代後期(6世紀後半)
とされています。山や川、海で採れる砂鉄と木炭の火力で鉄を得る
「たたら」と呼ばれる伝統技法が用いられてきました。
中世になると日本各地にたたら場が築かれましたが現存する高殿(たかどの)
が見られるのは、雲南市の「菅谷たたら山内(さんない)」だけ。
その施設長で、自身も当地に生まれ育った朝日光男さんに、
たたら製鉄の歴史と思い出を伺います。
高殿たたらで栄えた村
島根県のほぼ中央に位置する雲南市は、2004年に6町村が合併して誕生しました。県内で唯一海に面していない内陸の市で、名称は出雲の南で「雲南(うんなん)」地方と呼ばれてきたことに由来します。ヤマタノオロチ退治をはじめとする出雲神話の舞台として、特有の歴史や文化を持つことでも知られています。そんな雲南市の最南端に位置する旧吉田村の歴史的スポット「菅谷たたら山内」は、山間部にひっそりと広がっています。そのたたずまいからは、製鉄に従事するたたら師とその家族だけが住んでいた「山内」(さんない)と呼ばれた独特の社会があったことがうかがえます。
- 01-02高殿の前にある桂の木は、樹齢150~200年と推測されている。金屋子神を乗せた
シラサギが羽を休めた木であることから、ご神木として崇められている。
山内を象徴する建物、土炉の覆屋(おおいや)である高殿は一辺が18.2~3mの四角形で、屋根は耐久性と耐水性に優れた栗の木の板を13,500枚も重ねた壮麗な杮葺きです。屋内は薄暗く、足元は作業がしやすいように段差などをつけて踏み固められた土がむき出しになっています。
「良質な砂鉄の産地であったこの辺りで製鉄が始まったのは鎌倉時代と言われています。当時はこのような屋内型ではなく、野だたらと呼ばれる露天型の製鉄方法でした。そもそもたたらとは炉に空気を送り込む鞴(ふいご)を指しましたが、やがて製鉄そのものや施設全体をも意味するようになりました」。73歳とは思えない張りのある声で話す施設長の朝日光男さんは、「山子」(やまこ)と呼ばれる炭焼きを担当した家の長男として生まれました。
- 03硬いことで知られる栗の木を1枚ずつ削って板状に加工し「掛羽掛戻し」と呼ばれる
重ね方で葺かれた屋根。 - 04作業がしやすいよう、土炉から入口にかけてはなだらかな傾斜がつけられている。
- 05図などを示しながらわかりやすく、かつ巧みな話術で笑いを誘う朝日さん。
自身の父も施設長を務めていた。
「私たちの祖先に製鉄を教えたのは金屋子(かなやご)という神様だったと言い伝えられています」と朝日さんが話すように、実はどのような経緯で古代の日本に製鉄技術が伝わったのかはわかっていません。たたらの語源についても、「叩く」が転訛したとする説、サンスクリット語で熱を表す「タータラ」に由来するという説、タタール人がもたらしたからなど、いくつもの仮説が存在しています。近世にかけては日本固有の技法が確立されていきましたが、その詳細は村下(むらげ)と呼ばれた技師長だけのもので、自身の長男だけに口伝する一子相伝の世襲制でした。
三日三晩、不眠不休で
たたら作業は、鉄穴流(かんなながし)で砂鉄を採るところから始まります。山を崩して見つける鉄穴場(かんなば)と呼ぶ採取地から砂を掘り、4段階の水路(大池→中池→乙池→樋)に流し、比重の重い砂鉄と比重の軽い土砂に分けます。奥出雲地方では不純物が少ない真砂砂鉄が採れたことに加え、製鉄に欠かせない木炭の製造・調達も効率的に行えました。このような好条件と、江戸時代前半に「高殿たたら」(永代たたらとも呼ぶ)による量産法が開発されたことで、最盛期には中国山地一帯の鉄生産量が国内総量の大半を占めるようになりました。
菅谷に高殿が築かれたのは宝暦元年(1751)。「瑞風」の立ち寄り先として見学できる高殿は、嘉永3年(1850)の火災後に再建されたものです。4本の押出柱(おしたてばしら)に支えられた広大な空間は9m近い高さがあり、粘土4:真砂土6の割合でつくられた箱型の土炉が中央に設えられています。その周囲は、村下や炭焚といった役目を持つ技術者が陣取る座や木炭置き場、砂鉄を乾かしながら保存するスペース。当時の臨場感を静かに伝えます。
最盛期には月6回のペースで行われていたたたら操業では、まず初めに土炉に火種を入れて乾燥させます。続いて、木炭を投入してさらに温度を高め、そこに砂鉄を入れます。これを何度も繰り返して、海綿状の粗鋼・鉧(けら)を成長させていきます。鉧が十分な重量になったら炉を割って取り出し、高殿の前にある鉄池(かないけ)に投入して冷却するのですが、一連の作業は三日三晩休むことなく行われました。その間の一切、鞴で送り込む風量、砂鉄や木炭を入れる量とタイミングなど、操業のすべてを長年の経験とカンを持つ村下が取り仕切りました。
07
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- 06操業時は炎が高く立ち上るため、かつて屋根は開放されていたが、今は閉じられている。
- 07土炉はたたら操業が終わる度に壊された。展示されているのは昭和40年に復元された物。
- 08高殿の正面にある元小屋は、天保4年(1833)の火災後に再建された。
内倉と呼ばれる作業場跡などが見学できる。 - 09炉に風を送るために造られた水車の設置跡が残る。
「高殿たたら」が築かれた当初、炉に風を送り込む天秤鞴は人力で動かしていました。番子と呼ばれる屈強な男たちが2人一組計6人、1時間交代で鞴を踏んだことが「代わりばんこ」の語源になったとも言われています。近代に入ると、水車を使って起こした風を常滑焼の土管を通して鞴に送る方式に改良され、番子は役目を終えました。
「高殿がすごいのは地下構造を持つことなんです」と話す朝日さんによると、炉の地下には大型化した製鉄炉を安定的に高温操業するための4mにも及ぶ「本床」という構造があるそうです。大敵である湿気から炉を守る役目も果たす本床は、砕石→砂利→真砂土→粘土を重ねた多層構造や「小舟」と呼ばれる空間を持っています。製鉄作業1回ごとに築いては壊される炉に対して、本床はメンテナンスを行いながら繰り返し使われました。
- 10本床の構造を解説した図。底には砕石や荒砂、木炭などを敷き詰めた上に粘土、
真砂土などを重ねることで、断熱効果を高めるとともに土中からの湿気を遮断している。
先人の偉大さを後世に
江戸時代末期の開国政策で洋鉄が輸入され始めると和鉄業は急速に勢いを失っていきます。菅谷の高殿も大正10年(1921)にその火を消しました。170年の長きにわたって行われた製鉄は計8,643回。「武器や農具、日用品など、日本人の暮らしをさまざまな面から支えてきた和鉄の歴史の一つが幕を閉じたのです」と話す朝日施設長。最盛期には40世帯、約160人が山内に住んでいましたが、現在は10世帯が暮らすのみ。高齢化も進んでいます。
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- 11高殿近くの丘から建物を見渡すと、杮葺きの美しさ、正方形であることがよくわかる。
- 12山を崩して鉄穴場を造った後は棚田に整備。環境に配慮した事業であったことがわかる。
朝日さんが生まれた頃、吉田村はすでに製鉄の村ではなく、人々は主に林業と炭焼業に従事していました。「私も義務教育を終えてから4年間は、燃料用として販売する炭を山の中で焼いていました」と話す朝日さん。高殿は炭置き場兼子どもたちの遊び場になっていたそうです。山子の長男として生まれたからには、他の職に就くことはないと思っていた朝日さんですが、燃料としての炭も次第に需要がなくなったため炭焼き場は解散。「まったく違う仕事に就きました。人生はわからないものです。でも、それはこの高殿も同じこと。炭倉として壊されずに使われてきたからこそ、日本で唯一の現存する高殿として後世に雄姿を伝えることができたわけですから」。
先人たちの息吹が聞こえてきそうな高殿。事務所的な役割を担っていた元小屋。鉧を割る作業を行った大銅場(おおどば)。火を統べながら鉄の歴史を作ってきた名もなき人々に暮らしに思いを馳せることができます。
製鉄で栄えた吉田町に根ざした
事業の拡大に励んでいます
「株式会社」と「村」、やや違和感を覚える2つのワードを合わせて命名された株式会社吉田ふるさと村は、旧吉田村(現雲南市吉田町)の住民と自治体などが共同出資する第三セクターとして昭和60年(1985)にスタートしました。その事業範囲は幅広く、『瑞風』の立ち寄り観光ではガイド担当を務めています。
たたら製鉄と関連する産業で栄えた吉田村には、最も多い時期で5,000人が住んでいましたが、設立当時の人口は2,800人。「大正時代にたたらの火が消えた後は、林業や炭焼業を主な産業にしていましたが、どちらも段々先細りになっていきました。村民の流出を食い止めるためには働き場所をつくらなければなりません。そんな危機感を持ち会社設立に向けて動き始めます。村民の方々に株主になっていただきたいとお願いした結果、24~85歳まで、100人以上から計2,750万円もの出資金を集めることができたと聞いています」と石原秀寿さんは話します。
事業内容は多岐にわたりますが、主軸になっているのは農産物を主原料とした加工食品の開発と製造販売。主力商品の一つである卵かけご飯専用の醤油「おたまはん」は、一度聴いたら忘れられないネーミングとユニークなコンセプトで大ヒット。卵かけご飯ブームを巻き起こしました。15回目を迎えた「日本たまごかけごはんシンポジウム(毎年10月に開催)」は1,300人もの参加者が訪れる盛況ぶりです。
- 13大ヒット商品の卵かけご飯専用の醤油「おたまはん」。
- 14吉田ふるさと村の観光事業部部長 石原秀寿さん。
市内を定期走行する雲南市民バスの運転業務、水道施設管理業務や道路維持業務も行っています。他都市との交流を目的とした観光業も大事な柱で、令和元年11月には温泉宿泊施設「清嵐荘」がグランドオープン。たたら操業が実際に行える「4泊5日不眠不休ツアー」といった、かなりマニアックな観光ツアーも主催しています。
「瑞風」の立ち寄り観光では、宍道駅から雲南(菅谷たたら山内等)・松江(明々庵)を経て松江駅に戻るまでの全行程に地元ガイドとして同行。吉田町では、「菅谷たたら」の経営者で、松江藩筆頭鉄師でもあった山林王・田部家の邸宅が建つ辺りを「瑞風」のお客様と共に散策します。昭和61年(1986)の「鉄の歴史村」宣言以降、整備が行われた石畳の道はまさに風光明媚。「20基もの蔵を持つ田部邸の庭園は通常非公開ですが、『瑞風』の立ち寄り観光では特別にご覧いただきます」と話す石原さん自身が案内してくれる回もあります。
田部家の現当主は25代目で、祖父にあたる23代目は島根県知事、衆議院議員を歴任しました。当代は実業家ですが、2018年に約100年ぶりとなるたたら製鉄を行ったことでも話題を呼びました。土蔵群前にオープンした奥出雲前綿屋鐵泉堂(おくいずもまえわたやてっせんどう)では、その操業で作られた鉄を使った製品などを販売。操業の様子を写したビデオや実際に取り出された鉧(けら)なども見ることができます。
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- 15-16奥出雲前綿屋鐵泉堂では、製鉄にまつわる展示や製品の販売を行なっている。
- 17吉田ふるさと村の観光事業部部長 小田英夫さん。
軽快な口調で話しながら案内してくれる小田英夫さんは神主でもあります。「決して交通の便がいいとは言えないエリアだからこそ、独自の文化や魅力が育まれてきたと自負しています。他の観光地にはない体験や発見がある吉田町にぜひ一度足をお運びください。社員一同、お待ちしています」。
株式会社吉田ふるさと村 観光事業部部長 石原秀寿さん 小田英夫さん