四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。
豊岡
これぞ磁器中の磁器
~伝統の白を守り続ける~
渡来神である天日槍命(アメノヒボコ)が、但馬地方を永住の地と
決めたことから、古くからさまざまな文化が根づいていた出石の街。
出石焼の歴史は古墳時代にさかのぼります。
本格的な窯業が行われるようになったのは江戸時代後期。
透き通るような白磁が特徴の出石焼を2代にわたって焼き続ける
「虹洋陶苑(こうようとうえん)」の山本和則さんに出石焼の魅力を伺います。
原料となる岩石を偶然発見
兵庫県北部、日本海に面した豊岡市の山間に位置する出石町における窯業は、天明4年(1784)に伊豆屋弥左衛門が土焼(陶器)窯を築いたことに始まります。出石藩の援助もあり、作陶は順調に進みましたが、窯場が焼けたことや不景気などで、徐々に経営不振になっていきました。
伊豆屋弥左衛門の築窯から4年後、二八屋珍左衛門が九州の有田に出向いて磁器の技法を学び、職人・兵左衛門を連れ帰ります。しかし準備不足が否めなかったため、兵左衛門は二八屋を離れて伊豆屋へ。土焼を行っていましたが、伊豆屋の経営不振を受けて一旦出石を離れます。しばらくしてから兵左衛門は陶土を携えて出石に戻り、伊豆屋窯での磁器焼成を果たします。寛政5年(1793)のことでした。
出石藩は焼きものの振興を目的に、兵太丸地区に築いた窯を寛政11年(1799)に藩有とし、藩士を総取締役に任じます。「この頃、それまでは他地域から持ってきていた原料となる岩石が出石城下で発見されました。有田から職人を連れ帰ったばかりでなく、磁器の原料までも城内で探し当てた。まったくの偶然なのかもしれませんが、探査技術も未熟な時代のことですよ。私はそこにすさまじい執念を感じます」と山本さんは感慨深そうに話します。
- 01-02京都と出石を結ぶ旧街道沿いの山裾に、採石地がある。
天保年間(1830~44)には多数の民窯が開かれます。いずれも規模は大きくはありませんでしたが活況を呈します。レベルアップへのターニングポイントになったのは明治9年(1876)に設立された盈進社(えいしんしゃ)。出石焼の改良発展と明治維新で失職した藩士の支援を目的に有志から資金を集め、窯や工場を新設。鍋島藩窯の陶工も招き、士族の子弟などへの指導に当たらせました。
- 03-04先代の指導のもと、山本さんが制作した花器。
- 05前日に窯入れをしたため、外気温よりかなり高い状態になった工房内で
出石焼の歴史を語る山本さん。
その効果は瞬く間に表れ、従来の出石焼にはなかった精緻な作品が出現。明治天皇の京都行幸時には白磁の花器を献上します。パリ万博や第1回内国勧業博覧会(東京)への出品も果たし、出石焼の名は全国区になっていきました。明治18年(1885)、不景気や資金不足のため盈進社は廃業を余儀なくされましたが、精密精緻、姿形の美しさを追及した独自の技法は現在の出石焼にも受け継がれています。
京都で腕と感性を磨いて
山本さんの祖父は京都の清水で活躍した陶工でした。祖母は瀬戸市の出身。「私には焼きものの名産地の遺伝子が流れていることになります」とほほ笑みます。山本さんの父である耕太郎さんは、高品質で名を馳せた電気絶縁碍子を製造する出石の会社で工場長を務めた後、昭和47年(1972)に独立。「虹洋陶苑」を開きました。
「父は戦争で指を傷めたため、ろくろを使うことができませんでしたが、とても器用でした。彫刻の飾り花をつけた皿や精密な細工を施した花瓶などを遺しています」と懐かしそうに話す山本さん自身は、京都の芸術系大学の美術科に進学。陶芸コースで基礎を学び、卒業後は、京都の陶工専門学校と窯元で京焼や清水焼の技術も習得しました。「出石に戻る前に、京都でものづくりや美的感覚を養おうと考えたのです。今もその頃の経験が生きています」。
- 06-07出石町の中心部にある店舗では、美大出身の奥様・尚子さんが店番や絵付指導を行っている。
- 08-09先代が制作した、飾り花をつけた皿、姫路城などを描いた皿は店舗に飾られている。
出石焼は、純白の原料「柿谷陶石」を使う、冷たいほどに白い白磁が基本とされています。表面を彫って花や草木を表現する技法もあり、繊細な絵付も行います。山本さんは「これこそ磁器中の磁器であると表現されるのが出石焼。ただ、私は出石で焼かれたものはすべて出石焼と呼んでいいと考えています」と話します。実際、近年は色釉や染付など、従来の出石焼にとらわれない作品も数多く生み出されており、山本さん自身もさまざまなコラボレーションを行っています。
一方で悩みも。「後継者不足です。昭和55年(1980)に国の伝統工芸品に指定されて以降、伝統技法の継承と産地振興の取り組みを行ってきましたが、実際に作陶を続けている窯元は当家を含めて4ヶ所だけ。高齢化も進んでいます」。対策として、若手作家の育成を目的に、豊岡市は出石焼の技法習得とPRを希望する人材への支援を行う「地域おこし協力隊」を募っています。
- 10-11豊岡のバッグブランド「CREEZAN」とのダブルネームが記されたそば猪口。
「CREEZAN」製のレザーバンドを装着すると、マグカップのように使える仕様になっている。 - 12-13店舗とは離れた静かな場所に位置する工房で、朝から晩まで黙々と作陶に励む山本さん。
我が街、出石を知る機会に
出石焼を知ってもらえる機会になっていると山本さんも喜ぶのが、「瑞風」の立ち寄り観光先である城崎温泉での伝統工芸品製作体験です。「城崎温泉に昔から伝わる麦わら細工とのコラボレーション企画。私が作った白磁器に染色された麦わらを張る体験をしていただきます。『瑞風』はファンも多い寝台列車。伝統工芸品同士が協力し合えることにも喜んでいます」。
麦わら細工が城崎温泉に伝わったのは約280年前。湯治目的でやって来た鳥取県の職人が、色染めした大麦のわらを張った小物を売り、宿代の足しにしたのが始まりです。その技術は受け継がれ、明治以降は芸術性の高い工芸品として評価されるようになりました。「瑞風」ご乗車の際は、絹のような手ざわりと光沢、色合いが出るように加工された麦わら細工を、山本さんが焼いた風鈴や一輪挿しに張る体験を行います。
折しも一輪挿しを製作中だった山本さん。型抜の後、乾燥させた素地の角をとってなめらかにする工程を見学することができました。「虹洋陶苑」で販売する同形の一輪挿しに、出石焼の伝統技である花や草木を刻む「菊彫り」も披露してくださいました。この後、素焼と釉薬の工程を経て、焼成を行います。
- 14-15山陰コース(下り)では、出石焼の風鈴や一輪挿しに麦わら細工を張る体験ができる。
- 16-17完全に乾ききる前に、金属の棒を巧みに操り、花の姿を彫り上げる。
麦わら細工の制作体験では、とても愛らしいフォルムの風鈴を選ぶこともできます。山本さんは店頭に並ぶ完成品を手に取って、涼やかな音を鳴らします。「手づくりですから、同じ音は一つもないんです。お好みの音を選んでください」。趣味は落語。プライベートでは「茶臼家染陶(ちゃうすや・そめすえ)」の亭号で高座に上がる山本さん。見る者の目を和ませる出石焼に向き合う時の真剣な顔とは全く違う、洒落っ気のある表情もお持ちです。
- 18-19「虹洋陶苑」で販売されている風鈴。音も色柄も同じ物は二つとない。