四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。
萩
教育者・吉田松陰を
育んだ、萩の町
〜松陰神社宮司が語る〜
明治維新の原動力となった人材を数多く育てたことで知られる吉田松陰。
その素顔や教育観はどのようなものだったのでしょうか。
吉田松陰を祀る松陰神社の上田俊成宮司のお話をもとに、
今も萩で愛され、信仰される「松陰先生」の人生を紐解きます。
短くも濃密な
「松下村塾」での日々
吉田松陰が29歳の若さで世を去った31年後の明治23年(1890)8月、松下村塾の改修が塾出身者によって行われました。その際、松陰の実家である杉家の人々が建てた土蔵造りの小さな 祠 。それが松陰神社の前身です。その後、塾生であった伊藤博文などが中心になり、公の神社にしようと県に嘆願書を提出。運動の甲斐あって、明治40年(1907)に祠を松下村塾の南側に移設。本殿としました。戦後、昭和30年(1955)に宿願であった新社殿への 遷 座 を果たし、翌年には塾生や門下生を祀る松門神社も建立されています。
- 01松陰神社
- 02松下村塾
- 03塾内にある8畳の講義室
境内には木造瓦葺き平屋建ての小さな屋敷があります。松陰の叔父である玉木文之進の旧宅です。天保13年(1842)、ここで文之進が開いた私塾が「松下村塾」でした。講義室として使われていた八畳間には、松陰の 石 膏 像 と肖像画、机などが置かれ、当時の面影を今に伝えます。隣接して建つ、大きな木造の平屋が松陰の実家である杉家旧宅。ペリーが率いた黒船への乗船に失敗した松陰が、謹慎生活を送った三畳半の 幽 囚 室 があることでも知られています。「ここで松陰先生は本を読んだり、書き物をして過ごしていましたが、家族のすすめもあり、『孟子』などを講ずるようになりました」と、松陰神社の宮司・上田俊成さんが教えて下さいました。やがてその講義が評判を呼ぶように。 幽 囚 中 の身にも関わらず、松陰の元には多くの若者が集まりました。
- 04伊藤博文の旧宅
身内を相手に講じていた初期の頃から数えると2年10ヶ月、藩の許可を得た時期からでは1年1ヶ月。短い期間だったにもかかわらず、松陰は高杉晋作や久坂玄瑞を始めとする幕末の志士を育てました。「のべ92名もの塾生のうち、78名分の人物評が様々な文献に記されています」。後に初代内閣総理大臣になった伊藤博文には、「才能もなければ学も幼いが、素直な人間である。しかし人として花がないと木っ端みじんに評した後に、『僕、これをすこぶる愛す』と最大限の賛辞で締めくくっています。なかなか言えることではありません」。上田宮司は目を細めます。鋭く、厳しい見方をするけれども、その心根は優しい。だからこそ、塾生は松陰を師と仰いだのでしょう。
- 05高杉晋作の生家
- 06晋作広場にある立志像
キーワードは真心を尽くす「至誠」の思い。人をどう育てようかと探る 深 慮 が、言動や遺された書物からは伺えます。松陰は「人は生まれながらに善である」という孟子の性善説を是認していました。その証に、自身が牢に入った際も「罪人だからと悪人と決めつけるべきではない」という信念のもと、囚人たちに『孟子』の講義を始め、牢内の乱れた風紀を一新させたと言います。この経験は『 福 堂 策 』という一書にまとめられています。「すぐに行動を起こす一直線な面もあったけれども、狭い範疇では理解してはいけない、器の大きな人物だったのだろうと思います」。
「松陰先生」が生き続ける町
萩の町と日本海の水平線が眺め渡せる「団子岩」と呼ばれる高台で、松陰は19歳までの日々を過ごしました。豊かな風景を眺めながら、絆を重んじる家族に囲まれて育った松陰。幼い頃から兄とともに父の農作業を手伝い、その間に論語をはじめとする 四 書 五 経 を口伝で教わり、暗記していったと言われています。6歳の時、藩主毛利家に仕える、 山 鹿 流 兵学師範の家である吉田家を継いでいた父の次弟が急逝。その 後 嗣 となります。以降、父以上に厳しい叔父・玉木文之進から受けた 薫 陶 が、後の人生を左右することになりました。
- 07吉田松陰誕生跡地からの眺め
「江戸時代、長州藩の教育レベルはトップクラスだったと思われます。寺子屋、私塾、郷校、藩校がきっちりと機能していて、山口県内エリアには1300もの寺子屋があったようです」と、上田宮司は説きます。文之進が開いていた松下村塾はいわゆる私塾で、漢学を主に教えていました。後を継いだ松陰も、至誠を尽くして教育に当たります。「学問とは、自分がどんな人になりたいかの目標を掲げ、達成できるように突き進むことである」とする「 知 行 合 一 」を実践。一方的に講義を行うだけでなく、論語を全員で読んで全員で理解させる「会読」、今に言うディベートである「対読」、レポートを提出させる「策問」、野外学習など、様々な教育的テクニックを駆使していたことがわかっています。「松陰先生は、ものすごい数の書物を読破していますから、おそらく速読術の類も身につけておられたのでしょう」。そんな松陰の姿を目の当たりにし、塾生たちが自身を奮い立たせたことは想像に難くありません。
自らも近隣の生まれという上田宮司。「普遍的かはわかりませんが、長州人には一本気な面があるように思います。しかし、柔軟性も併せ持つのが長州人。武士のための学校であった明倫藩校が、農工商人の聴講を許していたことからみても、その懐の深さがうかがえるのではないでしょうか」。
- 08誕生地近くにある、松陰先生と金子重輔像
- 09日本の道100選の菊屋横丁
萩に生まれ育つ人々は、幼い頃から松陰の功績について学ぶため、尊敬を込めて「松陰先生」と呼びます。世間的には、倒幕に動いた苛烈な人というイメージが強いかもしれませんが、上田宮司は「真に現状を憂い、行動する人だった」ことを折にふれて伝えてきました。「江戸時代の地図で歩けるまち」とも言われる、松陰が慈しんだ城下町・萩。町並みだけでなく、相手を慮る気持ちや優しさ、松陰の思いも、今、共に受け継がれています。