「瑞風」の美を訪ねて

DISCOVER THE BEAUTY OF MIZUKAZE

四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。

今に生きる美と志〜大原美術館理事長が語る〜

ISSUE 02

倉敷

倉敷

今に生きる美と志
〜大原美術館名誉理事長が語る〜

TWILIGHT EXPRESS 瑞風の立ち寄り観光地の一つである
倉敷の大原美術館。
世界でも有数のコレクションを誇るこの美術館には、
昔も今も、人々の「美」にかける情熱が注ぎ込まれていました。

倉敷に美をもたらした
2人の出会い

エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス…。教科書に載っているような絵画を数多く有する大原美術館は、西洋美術を中心にコレクションする日本初の私立美術館として、昭和5年(1930)に設立されました。創設者は、経営する「倉敷紡績」を全国規模の企業に成長させるなど、幅広く活躍した事業家の大原孫三郎。その前年に病死した盟友の画家・児島虎次郎との友情に報いるものでした。

2人の出会いは明治35年(1902)にまでさかのぼります。岡山県高梁市に生まれた虎次郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科への入学の年に大原家を訪問します。孫三郎が父に進言して発足させた「大原奨学会」からの資金援助を得るためでした。孫三郎は1歳下の虎次郎の才能と性格にほれ込み、奨学生とすることを快諾。以降、友情を深めていきます。

虎次郎の才能は東京でさらに花開きます。二度の飛び級を経て、たった2年で大学を卒業。現在の大学院に当たる研究科在籍中に美術展で1等賞を取り、作品が現在の宮内庁に買い上げられる名誉を得ます。その知らせを喜んだ孫三郎は、虎次郎にヨーロッパ留学を勧めました。「才能と努力の結果ではありましたが、虎次郎はラッキーでした。だから、その幸運をみんなと分かち合うため、西洋の絵画を日本に持ち帰りたいと思ったのでしょう」。孫三郎の孫にあたる、美術館名誉理事長の大原謙一郎さんは穏やかに微笑みます。

01 大原美術館の本館は、昭和5年(1930)4月に着工、11月に竣工
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02 モネ「睡蓮」のモデルと同じ株を譲り受けて移植
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02 モネ「睡蓮」のモデルと同じ株を譲り受けて移植
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03 大原美術館の看板
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03 大原美術館の看板
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04 明治44年(1911)、留学先のベルギーで描かれた虎次郎の油彩『和服を着たベルギーの少女』
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  • 01大原美術館の本館は、昭和5年(1930)4月に着工、11月に竣工
  • 02モネ「睡蓮」のモデルと同じ株を譲り受けて移植
  • 03大原美術館の看板
  • 04明治44年(1911)、留学先のベルギーで描かれた虎次郎の油彩『和服を着たベルギーの少女』

虎次郎は、第1回目の留学から帰国する際(明治41年)、当時のフランスを代表する画家で、自身の作品を批評してくれたこともあるアマン=ジャンの作品購入を孫三郎に懇願します。また、2回目の留学では、すでに巨匠であったモネの『睡蓮』、マティスの『マティス嬢の肖像』ほか20点余りの作品を集め、大正10年(1921)に帰国しました。3度目の渡欧の際には、今、日本にあることが奇跡とも称されるエル・グレコの『受胎告知』、ゴーギャンの『かぐわしき大地』といった、大原美術館を語るうえで欠かせない作品群を持ち帰っています。

大原名誉理事長は、虎次郎を「原点にさかのぼろうとする人」と表現します。「ヨーロッパだけでなく、中国に4回、朝鮮半島やエジプトにも足を運び、古美術品を数多く購入しています」。ところが、昭和4年(1929)、47歳11ケ月の若さで急逝。孫三郎はその死を悼み、彼の買い集めた作品と虎次郎自身の絵画を展示するべく、美術館の開設を決意したのです。

若い世代を支える心意気

昭和18年(1943)に亡くなった孫三郎に代わって、戦後の大原美術館を大きく発展させたのは、その息子であり、大原名誉理事長の父である總一郎。1920年代のパリや第二次大戦後のアメリカで活躍した画家たちの作品、近代日本の絵画なども積極的にコレクションしていきました。「昭和20年(1945)7月、終戦直前の入館者記録を見ると5名の入場者があったと書かれています。第二次世界大戦中も、昭和20年(1945)7月から8月15日以外は開館しており、観たいと訪れる人は迎え入れていたようです」。そして、敗戦の傷が癒えたとは言えない昭和26年(1951)に開催された「マチス展」(6月)と「ピカソ展」(10月)では、どちらも驚くほど多くの入場者数を記録。人々の美に対する欲求は衰えていなかったことを証明すると同時に、「日本人は美を解する国民であることを世界に示す好機にもなったのではないでしょうか」。

總一郎は同時期、孫三郎とも深く交流していた民藝運動に関わる作家の作品を幅広く収集しています。昭和38年(1963)に開館した工芸館・棟方室は、米俵を積み上げる際、土壁に密着しないよう「荷ずり木」と呼ばれる丸太が埋め込まれた古い米蔵です。「実用の木材が力強く美しい、まさに民藝の本質である“用の美″が実際に見ていただけます。その丸太を背にしても棟方志功の作品は負けないはずだと、民藝運動の参加者でもある染色家・芹沢銈介は考えました。私ももちろん、そう思っています」。

05 工芸館裏にある広々とした中庭。
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06 荷ずり木が特徴的な工芸館・棟方室
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  • 05工芸館裏にある広々とした中庭。
  • 06荷ずり木が特徴的な工芸館・棟方室

「大原美術館から歩いて数分のところに、民藝運動の良き理解者・支援者だった孫三郎が建設費を寄贈して誕生させた倉敷民藝館があります。日本国内のみならず、世界各地から集めた民藝を展示する施設の開館にあたっては、總一郎も力を添えています。「孫三郎と虎次郎、民藝館成り立ちの経緯からもわかるように、倉敷には連綿と息づく町衆文化があります。若い世代や何かを成し遂げようとする者に『よっしゃ、わかった!』と、有形無形の応援を惜しまない心意気です。その根底には世の為、人の為との強い思いが流れているのです」。大切に受け継がれている美は、芸術作品だけではないことがよくわかります。

07 倉敷民藝館1階、主に企画展が行われる「いろりの部屋」
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08 倉敷民藝館の中庭
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  • 07倉敷民藝館1階、主に企画展が行われる「いろりの部屋」
  • 08倉敷民藝館の中庭

美術館は
生きて成長していくもの

開館80周年を迎えた2010年、大原美術館は「使命宣言」を行いました。

  • 1.アートとアーティストに対する使命
  • 2.あらゆる「鑑賞者」に対する使命
  • 3.子どもに対する使命
  • 4.地域に対する使命
  • 5.日本と世界に対する使命

この宣言からは「美術館は生きて成長していくもの」という信念と「今を生きる人にとっての意義」を問い続ける真摯な姿勢が伝わってきます。この宣言のもと、現在行われているのがアーティスト・イン・レジデンス活動です。若手アーティストに、虎次郎が実際使っていた電気設備のないアトリエを提供し、日の出と共に制作を開始し、日の入りと共に眠りにつく生活を数か月間続けてもらい、創作活動を支援するというもの。すでにこの活動から斬新気鋭のアーティストも誕生しています。

  • 09 倉敷民藝館2階の展示室から眺めた倉敷川
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  • 10 大原美術館前の橋の欄干に施された、虎次郎がデザインした龍のレリーフ
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  • 11 阿智神社に向かう石段からは、緑御殿の瓦がよく見える
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  • 12 本町で今も酒を醸し続けている森田酒造
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  • 13 昔ながらの細い道も残る、美観地区
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  • 14 鶴形山頂にある阿智神社からは、美観地区が見渡せる
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美観地区の街並み

  • 09倉敷民藝館2階の展示室から眺めた倉敷川
  • 10大原美術館前の橋の欄干に施された、虎次郎がデザインした龍のレリーフ
  • 11阿智神社に向かう石段からは、緑御殿の瓦がよく見える
  • 12本町で今も酒を醸し続けている森田酒造
  • 13昔ながらの細い道も残る、美観地区
  • 14鶴形山頂にある阿智神社からは、美観地区が見渡せる

また大原美術館では、近隣の幼稚園・保育園児が年間3,000名以上も訪れます。
突起物のない服装で、靴を脱いで工芸館の床(木煉瓦)を裸足で歩いたり、先生に引率され、作品の前で喜々とする子どもたちの様子と見るにつけ、美術館で過ごすことが日常生活の一部になっているヨーロッパの光景が思い起こされます。
また毎年8月の土、日には、小・中学生や親子連れで参加できる「チルドレンズ・アート・ミュージアム」と名付けられた大原美術館全体を使ったワークショップも開催されています。

「今までも、そしてこれからも“志”ある美術館として、新しい発見や創造を後押しし、多くの人たちの心に火を灯していきます。最古の私立美術館であるとともに、いつも最新・最高でありたい。まだ詳細は明かせませんが、新しい計画も進行中。楽しみにお待ちください」。そう宣言した大原名誉理事長の笑顔は、晴れの国・岡山にふさわしい麗らかさでした。

知る人ぞ知る名建築、
「有隣荘」をご覧いただけます

有隣荘は、大原美術館の正面に建つ昭和3年(1928)に完成した大原家の旧邸です。当初、孫三郎は、病弱な妻のためにささやかな私邸を建てるつもりでしたが、次第に計画が拡大。迎賓館としての役割も併せ持つ豪邸を、3年の月日と破格の費用をかけて建築しました。設計は大原美術館を手がけた薬師寺主計が担当しました。本格的なサンルームを持つ、天井の高い応接室。龍をモチーフにした欄間といった、内装デザインは児島虎次郎が。高松城の石垣にも使われている庵治石の超特大サイズを大胆に配した庭は、七代目小川治兵衞が。それぞれ、孫三郎の意見を聞きながら行っています。虎次郎が特注した、特殊な釉薬を使って焼いた瓦の色から「緑御殿」の愛称も、倉敷の街では知られています。春と秋、大原美術館の特別展開催時などに特別公開されています。「瑞風」にご乗車いただいた方は、大原美術館と共に見学していただけます。

15 有隣荘の屋根は、虎次郎の発案で一部が日本風、一部がスペイン風
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  • 15有隣荘の屋根は、虎次郎の発案で一部が日本風、一部がスペイン風

「瑞風」によせて

大原美術館 理事長 大原 謙一郎大原美術館は美観地区と呼ばれるエリアにあります。江戸幕府直轄の天領地として、物資の輸送という役目を担った倉敷川添いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りが造りだす街並みが保存され、訪れる人々の目を楽しませています。しかも、これらは今もなお「生きている」「働いている」「住まわれている」文化財です。冬は寒く、夏は暑い。しかし、倉敷のまちを愛し、生き生きと暮らしている町衆の美しき気概がここにあります。そうした魅力もTWILIGHT EXPRESS 瑞風で倉敷にお越しくださる皆さんに知っていただけることを、切に願っています。

大原美術館名誉理事長 大原 謙一郎

大原美術館 理事長 大原 謙一郎

Information

大原美術館

住所
〒710-8575岡山県倉敷市中央1-1-15
Tel
086-422-0005
アクセス
山陽本線にて倉敷駅下車
徒歩で15分
ホームページ
www.ohara.or.jp

大原美術館

※掲載されている情報は、公開時のものになります

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