「瑞風」の美を訪ねて

DISCOVER THE BEAUTY OF MIZUKAZE

四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。

京都の文化にふれる Vol.1〜京都の文化にゆかりのある方が語る〜

ISSUE 03

京都

京都

京都の文化にふれる Vol.1
~京都の文化にゆかりのある方が語る~

“美しい日本をホテルが走る”をコンセプトに運行を開始した
TWILIGHT EXPRESS 瑞風。
「瑞風」の発着地である京都、
その京都の文化にゆかりのある方々が感じる
文化都市京都の魅力、「瑞風」に寄せる思いをご紹介します。

世界が注目する、
秀吉が築いた街・伏見
魚三楼 九代目当主 荒木 稔雄 さん

 「瑞風ラウンジ」の入口付近には、二方向に窓があります。北側の窓からは京都タワーの堂々たる姿が目に迫ります。もう一面からは市の南域が見渡せるのですが、窓の左端に見える緑豊かな山の裾野に広がるのが、豊臣秀吉が造った街・伏見です。山の頂に建つのは、昭和39年(1964)に建設された模擬天守。今は閉鎖されていますが、私が子供の頃は登城することができました。天守からの視界は360度。京都の中心部をはじめ大阪、奈良、滋賀…どこから敵が攻めて来ても備えられるように、秀吉はここに城を築いたのだなと子供ながらに理解したことを覚えています。

旨い水が湧く、旧港町

 讃岐の国で魚を扱っていた私どもの初代が上洛し、伏見に店を構えたのは明和元年(1764)。若い頃、父に「うちの先祖は、なんで祇園とかじゃなくて、伏見に店を開いたんかなあ?」と聞いたことがあります。答えは「瀬戸内の魚の北限が伏見やったから」でした。大阪や淡路の近海で揚がった鮮魚は淀川を通り、翌日には当時港町として栄えていた伏見に運び込まれたのです。そこから北に位置する中心部に届くまでにはもう1日かかるため、冷蔵技術のないその時代は鮮度を保つことができません。事実、250年前の当家の献立を記した文献から、タイにヒラメ、タコをお出ししていたことがわかっています。
かつて、伏見は「伏水」と書きました。醸造蔵の並ぶ風景が代名詞になっていることからもわかるように、ミネラル分の多い地下水が今も滾々と湧き出ています。私どもの店では、その名水で味の決め手になるだしを引いています。そのままで飲むと口当たりやわらかくまろやか。料理に使うと、素材の旨みを引き出してくれる、今も昔もなくてはならない存在です。

魚三楼 九代目当主 荒木 稔雄さん
「魚三楼」の格子 中央は鳥羽・伏見の戦いの弾丸痕
「魚三楼」の格子
中央は鳥羽・伏見の戦いの弾丸痕

変えないように変わる、
日本の文化を伏見から

 変わらないものがある一方、調理方法は薪からガス、電気へ。料理の種類も、昔は生か火を通したものしかありませんでしたが、今は低温調理という技法もよく使われています。道具も随分進化していますし、食材もどんどん変わってきています。そんななかで、食材を選りすぐり、どの方法で調理すれば、日本料理の真髄である目と舌を楽しませる料理が作れるか。見た目は変わらないようでいて、けれどもその奥にある哲学や技法は常に磨き続けること。それが、私たち料理人の責務だと常々肝に銘じています。
ご存じのように「和食と日本人の伝統的な食文化」が、平成25年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。その理由として「①多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重②健康的な食生活を支える栄養バランス③自然の美しさや季節の移ろいの表現④正月などの年中行事との密接な関わり」の4点が挙げられます。
美しい日本の里山、海といった豊かな自然がもたらす様々な食材を、蓄積された技術やノウハウを駆使して仕立てるのが和食です。いわば日本の文化の集大成が「瑞風」の車内で、原風景を眺めつつ味わっていただける。料理人として、こんなにうれしいことはないと思っています。
古来、私たちは八百万の神に感謝し、平和に暮らしてきました。京都人は何にでも「お」や「さん」をつけると言われていますが、それもその気持ちの表れだと私は思います。「お豆さん」「お粥さん」「お隣さん」、そして伏見稲荷大社は「お稲荷さん」。この伏見のシンボルは、今、世界的な観光地として脚光を浴びています。中心部とは少し異なる風景に出合える伏見は、今後は京都のみならず、近畿観光の中心になっていくと私は考えています。

荒木 稔雄
Shigeo ARAKI

魚三楼
九代目当主

魚三楼 九代目当主 荒木 稔雄

プロフィール

魚三楼 九代目当主 荒木 稔雄1987年、株式会社魚三楼に入社、2008年、代表取締役に就任。若手料理人で作る京都料理芽生会元会長。現在、日本レストラン協会理事、京都料理組合理事、(NPO法人)日本料理アカデミー理事など多くの役職に就き、世界へ向け、日本料理の発展に尽力。魚三楼を支えてきた先人らに敬意を払い、「本質を見極め、ぶれることのない料理」をモットーとする。2017年「京の冬の旅」ポスターモデル。

世代を超えて、
朽ちゆく美しさを究める
釜師 大西 清右衛門 さん

 「釜をかける」や「初釜」、お茶の世界には釜を用いる言葉がいくつかあります。千利休は「釜ひとつ あれば茶の湯は なるものを 数の道具を 持つは愚かな」という一首を残しています。個人的には、他の道具も必要だと思いますが、釜は最初から最後まで茶席に留まるただ一つのお点前道具。亭主の心を物語る道具であることは間違いありません。
けれども、釜に着目される方はそう多くはありません。やはり、茶椀や茶杓などにスポットライトは当たりがち。そんな状況に一石を投じたく、十六代目を襲名した5年後に「大西清右衛門美術館」を開設しました。何百年も前に作られた釜の「侘びた」風情や創意工夫の跡、意匠の移り変わりなどを実際に見ていただくことで、釜との距離を縮めていただけたら。そんな思いを持っています。

大西清右衛門美術館
大西清右衛門美術館
源氏香透八角釜 16代清右衛門作
源氏香透八角釜 16代清右衛門作

走る日本文化、
「瑞風」の中にある釜とは

 私ども釜師は職人ですから、ご依頼を受けて釜を作ります。施主の人柄、趣味や趣向を理解した上で、私自身が納得できる出来栄えの釜を作らせていただくため、お納めするまでに通常数年。特殊な例ですが、20年待っていただいたこともありました。
そういう意味では、「瑞風」5号車のラウンジに納める釜をというご依頼はいつもとは少し違いましたが、その「人柄」は、設計図や工事中の車両も拝見して研究をさせていただきました。私自身は「鉄ちゃん」と言えるほどでもないのですが、オリエント急行に憧れていた世代です。何年か前、南アフリカ共和国に行った際も、有名な「ブルー・トレイン」に乗車できないかと画策しました。結局、夢はお預けになったのですが…。
「瑞風」の特長は、アール・デコ調をベースにしたノスタルジックな雰囲気ながら、設備や機能、おもてなしは最先端であること。釜を作る上で私が大切にしている、伝統的でありながらも革新性や現代的な価値観を忘れてはならないという点に通じると思いました。そこで、釜の形はアール・デコ装飾の中にあっても日本が感じられるよう、伝統的な真形釜に決めました。摘みは大西家に代々伝わる菊切。台座は桐です。これは「瑞風」のボディにあしらわれているゴールドのラインを見て、我が家が守ってきた意匠と共通するものがないかと考えて選びました。真形釜といっても色々なのですが、あの場所に合うよう少し肩が張った形にしました。
実際に乗車して、納めた釜が使われるところも見せていただきましたが、これは私にとっても初めての体験で、大変ドキドキしました。動く列車内で釜の中の湯がどうなるかとも案じており、釜の肩を張らせたのは湯が溢れないようにする方策でもあったのですが、実に安定した走行で、まったくの杞憂に終わりました。

数百年の先までも…

 時代の流れとは不思議なもので、無くなっても衰退しても、良いものはまた世に出てきます。町家なども、近ごろは畳の部屋が家にない若い方が住みたいと言われ、お店などにも活用されています。お茶も危機的な状況になったり盛り返したり、時代と無縁ではいられません。私の作った釜は数百年使えます。金属が錆び、朽ちてゆく様も茶人は美と讃えて楽しみます。「瑞風」という、日本の素晴らしさが再発見できる車両内に、お茶の文化を加えていただいたことを感謝するとともに、釜が自然にバロックな風情を見せてくれる、そう、数百年先まで受け継がれることを願っています。

大西 清右衛門
Seiuemon OHNISHI

釜師

釜師 大西 清右衛門

プロフィール

釜師 大西 清右衛門大西家が住まう三条釜座は平安初期から鋳物の歴史を伝える地。大西家は四百年間、京釜の伝統を守り続け、現在で十六代を数える。初代は武家大名の釜を造り、六代より千家に出仕。京都には「千家十職」と呼ばれる十軒の職家があり、各家が数百年の歴史を有しながら茶道の中で独自の役割を担うが、大西家はその一軒である。当代清右衛門は1998年「大西清右衛門美術館」を開設。釜の製作研究を行いつつ茶の湯釜の文化の普及に尽力する。2012年「京の冬の旅」ポスターモデル。

大好きな京都に住み続ける意味
書家 川尾 朋子 さん

 初めて京都に長期滞在したのは高校生の時でした。残念ながら観光などが目的ではなく、中学時代に始まった慢性的な症状を克服すべく、専門病院に入院するためでした。そこでは患者として全国からたくさんの人が来ていて、画家やダンサーなど、様々なアーティストに出会えました。その時に受けた影響もあり、芸術やカルチャーにのめり込むようになりました。入院中は出歩くことができなかったのですが、退院前には少し自由な時間をいただき京都を歩いて、その空気や景色が大好きになりました。
書道を始めたのは母が薦めたから。小さい頃は結構なおてんばだったという私を落ち着かせたかったようです。中学・高校もずっと書道を続けるなか、自分を元気にしてくれた京都の大学に進学したいと思うようになり、同志社女子大学に入学。憧れの京都暮らしをスタートさせました。師である書家・祥州先生に出会えたのもこの街。本当に良い思い出しかないですね。
京都を代表する存在である八坂神社の境内に湧き出る御神水で墨を磨っています。海外で書く時もおまじないではないですが、少量加えることも。お詣りと御神水をいただくために通っています。

日々に発見がある街、京都

 京都が好きな理由はたくさんあるのですが、第一は仮名(ひらがな)が生まれた場所であること。第二は、あてもなくブラブラ歩いていても、毎日何かしらの新しい発見があること。あちこちに建つ石碑にすごい史実が隠されていたり。そんな発見があると街の表情が違って見えてくるものですが、それが毎日続くのが京都なんです。ふっと立ち寄った和菓子屋さんの帳場に掛けられていた扁額が富岡鉄斎の書だった、なんて出合いにも恵まれる、そんなエキサイティングさも京都の魅力です。
物理的な面でも、京都は書家が住みたくなる街です。薄い半紙に揮毫する書は、そのままでは展示することも、作品として美しく後世に残すことも困難です。そこで表具師さんに表装して額や掛軸にしてもらうのですが、京都には技術に信頼をおける表具師さんがたくさんおられます。
寺町通の三条通から丸太町通間がお気に入りの場所なのですが、ここには書家に必要な文房四宝である筆・硯・紙・墨を扱うお店が並んでいます。「瑞風」に乗られる方たちにも一度は足を運んでいただきたいエリアです。

書の奥深さを知ってもらう活動も

 皆さんの前で行うライブパフォーマンスは、集中力が求められますが、一般的には2次元だと認識されている書にも、空中で筆を使う3次元の動きがあるのだとわかっていただける好機だと思っています。

書家 川尾 朋子
誓願寺での書の奉納、人文字シリーズ「月」
誓願寺での書の奉納、人文字シリーズ「月」

 2013年に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」オープニング映像に私の作品が採用されたことは、大きな転機になりました。同志社女子大学の校祖がモデルのドラマでしたから、感激もひとしおでした。また、新島八重さんの最初の旦那様川崎尚之助が故郷の出石のご出身。深いご縁を感じています。
文房四宝は何千年も前から変わっていません。しかも、すべて自然の産物。エコですよね。古いモノや見えないモノを大切にするこの街で、そんな道具で書に打ち込めることはとても有難いこと。第二の故郷でこれからもこの暮らしを続けていくつもりです。

川尾 朋子
Tomoko KAWAO

書家

書家 川尾 朋子

プロフィール

書家 川尾 朋子6歳より書を学び、公募展・国際展で多数受賞。展覧会出展のほか、ライブパフォーマンス、寺院や企業への揮毫など、多方面において精力的な活動を展開。NHK大河ドラマ「八重の桜」オープニング映像やNHK Eテレ「趣味どきっ!」の講師などでも活躍。近年は自身が文字の一部になる人文字シリーズを発表するなど書の可能性を追求している。2017年「京の冬の旅」ポスターモデル。

ご紹介した「荒木 稔雄さん」「大西 清右衛門さん」「川尾 朋子さん」は
「瑞風」の旅の始まりにチェックインと出発前のおもてなしを提供する
「瑞風ラウンジ京都」でご高話をいただいております。

※掲載されている情報は、公開時のものになります

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