「瑞風」の美を訪ねて

DISCOVER THE BEAUTY OF MIZUKAZE

四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。

江戸の雫と明治の息吹~城跡に建つ洋風建築・仁風閣~

ISSUE 09

鳥取

鳥取

江戸の雫と明治の息吹
~城跡に建つ洋風建築・仁風閣~

TWILIGHT EXPRESS 瑞風の立ち寄り観光地の一つ、
鳥取駅の北東に位置する国指定重要文化財「仁風閣」は、
鳥取城跡に建てられた白亜の洋館。
その数奇な運命、今も変わらない魅力の数々を
地元育ちの名物所長・本城義照(ほんじょうよしてる)さんが語ります。

険しい山の頂に築かれた名城

市役所や県庁が並ぶ一帯を見守るように、仁風閣のある久松山(きゅうしょうざん)はそびえています。鳥取市の象徴でもあるこの山の標高は263メートル。さほど高くはないものの山容が急峻なことから、室町時代後期の守護大名・山名氏が城を築きます。防御性の高さや山頂からの絶景ゆえ「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と呼ばれた久松山に建つ鳥取城を、織田信長は「堅牢な名城」と讃えたと伝えられています。

01 国指定重要文化財「仁風閣」の外観
01
02 国指定重要文化財「仁風閣」の外観
02
03 実は優れた尺八奏者でもある本城所長。
03
  • 01-02国指定重要文化財「仁風閣」の外観
  • 03実は優れた尺八奏者でもある本城所長。

関ケ原の合戦後には手柄を立てた池田長吉が城主に任じられます。長吉は、織田家重臣の一人、清須会議にも名を連ねた池田恒興(つねおき)の三男で、兄の輝政は姫路城を築いた名将でした。やがて大坂夏の陣が起き豊臣家は滅亡。当時の姫路城主・池田光政(輝政の孫)が国替えを命じられて鳥取城主になります。それから15年後に岡山城主・池田忠雄が亡くなり、家督を当時3歳だった長男の光仲が継ぎます。同時に幕府は、従兄弟である光政と国を入れ替えさせました。以降、光仲を藩祖とする鳥取池田家は12代にわたって鳥取城を居城とし、国内で12番目となる32万石を誇る大藩として栄えました。「光仲の祖母は徳川家康の二女である督姫。つまり曾孫ですから、外様だったにもかかわらず大藩を維持できたのではないでしょうか」と、白いアゴヒゲと帽子がトレードマークの本城義照所長は話します。

明治維新直後には鳥取城は取り壊しを免れましたが、陸軍施設として再利用されます。けれども治安の安定と共に役目を終えたと、明治12年(1879)に大半の建物が解体され、城跡の一部は学校用地などに転用されました。残るエリアは、旧藩主である鳥取池田家が人々の要望を受けて久松公園として整備。「昭和18年(1943)の鳥取大地震後、復興に向けて立ち上がる市民を勇気づけるため、鳥取市に寄贈されました」。

わずか8ヶ月で完成した洋館

鳥取藩最後の藩主・池田慶徳は、徳川15代将軍・慶喜の兄にあたります。「性格的に穏やかだったので、11代藩主・慶栄(よしたか)の養子になり、12代藩主として藩政の改革や学問の奨励に務められました」。その孫娘の婿養子に迎えられて14代目当主になった仲博は、慶喜の五男。「廃藩の後、侯爵に列せられた13代目と14代目は従弟同士。徳川家と鳥取池田家の関係の深さがわかります」。

扇御殿の名を持つ建物の跡地に造られた「仁風閣」は、14代目・池田仲博侯爵が、明治洋風建築の最高傑作と言われる赤坂離宮や京都国立博物館などを手がけた片山東熊工学博士に設計を依頼。監督は、片山の後輩で鳥取市出身の橋本平蔵が担当しました。明治39年(1906)9月に着工し、翌年の5月には竣工。その8日後には、皇太子(後の大正天皇)の宿舎として供されました。「そもそも予定された建築ではあったようですが、たった8ヶ月で延べ面積317坪もの洋館を完成させたことになります。建築にかかった費用は44,000円。当時の鳥取市の年間予算が50,000円でしたから、鳥取池田家の財力と行啓への思いの深さが推し量れます」。本城さんも驚きを隠しません。

04 関ポーチや扉の装飾はシンプルながら、アーチ型の破風は凝った造りになっている。
04
05 関ポーチや扉の装飾はシンプルながら、アーチ型の破風は凝った造りになっている。
05
  • 04-05玄関ポーチや扉の装飾はシンプルながら、アーチ型の破風は凝った造りになっている。

フレンチ・ルネッサンス様式を元に、バロック風の棟飾りが施された木造2階建ては、見る者を明治時代へと誘います。「4.3mの天井高を持つ2階は皇太子殿下専用のゾーン。3.9mの1階は随行者などが使うゾーンとして造られており、調度品や部材などもその想定に合わせたものが配されています。仁風閣の名は、随行していた海軍大将・東郷平八郎が命名しました。“仁”は思いやりや優しい心。“風”は久松山を扇の要に見立てることから連想されたのではないでしょうか。2階ホールにはその揮毫を掲げています」。

  • 06 東郷平八郎海軍大将の直筆。
    06
  • 07 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    07
  • 08 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    08
  • 09 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    09
  • 10 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    10
  • 11 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    11
  • 12 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    12
  • 13 シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
    13
  • 14 茶菓をいただけるのは2階の謁見所。その奥にベランダがある。
    14

仁風閣の内装

  • 06東郷平八郎海軍大将の直筆。
  • 07-13シャンデリアやカーテンボックス、壁紙、随所に細やかな意匠が施されている。
  • 14茶菓をいただけるのは2階の謁見所。その奥にベランダがある。
15 御寝室前のロビーには、結界の役割を果たす装飾用の円柱が設けられている。
15
16 御寝室は畳敷きになっていて、その横室にはビロード張りの便座があるトイレが備わる。
16
17 謁見所左手にあるのが御座所。蒔絵細工が施された椅子などが置かれている。
17
  • 15御寝室前のロビーには、結界の役割を果たす装飾用の円柱が設けられている。
  • 16御寝室は畳敷きになっていて、その横室にはビロード張りの便座があるトイレが備わる。
  • 17謁見所左手にあるのが御座所。蒔絵細工が施された椅子などが置かれている。

鳥取県下で初めて電灯がついた場所でもある仁風閣には、上品なシャンデリアが吊り下げられています。華奢なガラスシェードや木製の窓飾り、手吹きの板ガラスが嵌る観音開きの窓、見どころは数多くありますが、中でも圧巻なのは宙に浮いているような造形を持つらせん階段です。「設計は当時の最先端だったでしょうが、実際の現場で腕を振るったのは日本建築専門の大工さんたちに違いありません。らせん階段なんて見たこともなかったでしょう。曲線形に削り出したケヤキの木を6枚重ねて、踏板を支える『ささら桁』を造り、支柱のないらせん階段を完成させました」。

18 せん階段は、実は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂を結ぶ裏階段だった。
18
19 せん階段は、実は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂を結ぶ裏階段だった。
19
20 せん階段は、実は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂を結ぶ裏階段だった。
20
  • 18-20らせん階段は、実は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂を結ぶ裏階段だった。

文化、気風を次の時代へ

仁風閣の背面には、1・2階共に吹き放しのベランダが設けられています。本城さんによると、特に2階のベランダは鳥取一美しい人物写真が撮れるポイントなのだとか。「春から秋にかけての光の入り具合が人物撮影にちょうど良いのと、壁がすべて白いので肌を美しく見せてくれるようです」。そこからは隣接する「宝隆院庭園」が一望できます。「この池泉回遊式庭園は、若くして未亡人になった11代夫人・宝隆院を慰めるために、12代藩主・慶徳が造りました。池の端からは城の石垣と仁風閣が一望できます。江戸の雫と明治の息吹を象徴するこの光景を、来所される方々にはぜひ眺めていただきたいと思っています。

21 人物が美しく撮影できる、2階のベランダ。
21
22 人物が美しく撮影できる、2階のベランダ。
22
23 城の石垣と仁風閣が一望できる宝隆院庭園。
23
  • 21-22人物が美しく撮影できる、2階のベランダ。
  • 23城の石垣と仁風閣が一望できる宝隆院庭園。

鳥取市内に生まれ育ち、仁風閣の隣地に建つ県立高校を卒業生した本城さんが小学生だった頃、「ここは池田家から寄贈され、科学博物館として利用されていました。『瑞風』に乗って来られた方たちに茶菓を提供する場にしている謁見所の壁面には、蝶の標本が展示されていました」と明かします。手入れが行き届かない時代もあったため、いっそ取り壊して市民会館に建て替えようという声も上がったそうです。「そんな折、屋根裏から棟札が見つかり、建築に関わった人々や詳細が判明。その効果も手伝って保護運動が活発になりました」。重要文化財の指定後、約2億円をかけて3年にわたる修理復元を行い、往時の姿を取り戻しました。

貴重な遺構でもある鳥取城の石垣も度々の天災などで一部崩落していましたが、昭和32年(1957)に国史跡指定を受けたことを契機に修復を開始。2006年には鳥取城の建物復元を含めた長期的な整備計画を市が決議。現在、城の正面玄関である大手登城路の復元が進んでいます。このうち、2018年9月30日には、大手橋であった「擬宝珠橋(ぎぼしばし)」の渡り初めが予定されています。

「瑞風」によせて

仁風閣所長 本城義照池田仲博侯爵は家庭的な一面もあり、とても子煩悩な方だったようです。写真を撮るのが好きで、お子様をはじめとする日常の風景をとらえておられます。所内にはそんなスナップの一部も展示しています。その侯爵が巨万を投じて完成させた明治近代建築の美しさ、鳥取市民の誇りをぜひ見ていただきたいと、「瑞風」の運行が決まった時からずっと願ってきました。仁風閣は国の重要文化財ですので、通常は内部で飲食することは難しいのですが、その点もアイデアと熱意でクリアしました。明治時代にタイムスリップしたかのような気分を満喫していただければ幸いです。

仁風閣所長 本城義照

仁風閣所長 本城義照

伝統文化「麒麟獅子舞」
が見られます

鳥取県の東部・因幡地域で行われている「麒麟獅子舞」は、鳥取池田家の初代藩主・光仲が鳥取東照宮を建立した際に登場させた祭礼の行列が始まりと言われています。太鼓と笛、鉦が奏でるゆるやかなお囃子に乗り、麒麟獅子と猩々が舞います。五穀豊穣、漁業の安全、収穫感謝を祈願するタイミングで家々を門付けしながら披露する舞を、「仁風閣」の2階ホールで鑑賞いただきます。獅子に頭を噛んでもらうと子供は賢く、大人は無病息災でいられると伝わります。皆様も獅子に噛まれにお越しください。

因幡麒麟獅子舞の会  会長 西村伸一さん

24 麒麟獅子舞は地域の各神社に属するため、170以上ものグループや団体が存在する。その獅子頭と猩々の意匠はそれぞれに異なる。
24
  • 24麒麟獅子舞は地域の各神社に属するため、170以上ものグループや団体が存在する。
    その獅子頭と猩々の意匠はそれぞれに異なる。
因幡麒麟獅子舞の会  会長 西村伸一さん

特製洋菓子と飲みものを
提供しています

鳥取県内でカフェなどの飲食店を展開するTreesグループは、「瑞風」の乗降駅でもある東浜駅舎内のレストラン「アルマーレ」のプロデュースを担当。そのご縁もあり、グループの店である「cafe SOURCE」が仁風閣での茶菓提供を行っています。神戸の萩原珈琲さんにオーダーしているモカブレンド豆で淹れるコーヒーとセイロンティーは、青色にこだわって特注したカップ&ディッシュで。馬の背をイメージして考案した、特製パウンドケーキは持ち帰りも可能な個包装にしています。

cafe SOURCE 仁風閣担当 高知幸子さん

25 夏場はアイスコーヒーなども用意されている。ランチョンマットは因州和紙製。器は「瑞風」車内でも使われている「中井窯」のもの。
25
  • 25夏場はアイスコーヒーなども用意されている。ランチョンマットは因州和紙製。
    器は「瑞風」車内でも使われている「中井窯」のもの。
cafe SOURCE 仁風閣担当 高知幸子さん

Information

国指定重要文化財 仁風閣

住所
〒680-0011 鳥取県鳥取市東町2丁目121番地
Tel
0857-26-3595

9時~17時(入館は16時半まで)
月曜、祝日の翌日、年末年始休館

アクセス
山陰本線にて鳥取駅下車
タクシーで5分、徒歩で30分
ホームページ
http://www.tbz.or.jp/jinpuukaku/

国指定重要文化財 仁風閣

※掲載されている情報は、公開時のものになります

バックナンバー