四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。
萩
伝統を守り、革新を貫く
~350年以上にわたり、窯の火を絶やすことなく~
初代の三輪休雪が毛利藩に召し抱えられ、御用窯となったのは
寛文3年(1663)のこと。その後、天和2年(1682)に現在の地へ。
代々の当主は伝統を守りつつ、独自性を発揮してきました。
つい先ごろ、13代休雪を襲名された三輪和彦さんが、
萩焼やご自身の若き日々、そして「瑞風」車内に展示されている
作品に込めた思いを語ります。
御用窯から苦難の時代を経て
日本におけるやきものの歴史は、天下統一を果たした豊臣秀吉によって大きく変わったと言われています。端緒となったのは、文禄元年(1592)と慶長2年(1597)。いわゆる「朝鮮出兵」の際に、多くの陶工を連れ帰りました。出陣した西国大名それぞれに召し抱えられた陶工たちは、その土地の特性を生かしたやきものを作るようになります。
そんな朝鮮人陶工の一人である李勺光(り・しゃくこう)と弟の李敬(り・けい)が、広島から萩に国替えした毛利輝元の命を受けて、慶長9年(1604)に築いた御用窯が萩焼の始まりです。それから半世紀ほど後、諸説あるのですが大和の国・三輪の住人だったとされる源太左衛門を祖先とする「三輪窯」も御用窯に任じられます。元禄15年(1700)、初代休雪は藩命を受けて京都へ。楽焼の創始者の家である楽家(らくけ)で修業しています。その理由について三輪先生は「朝鮮から渡来した形に対し、国内、取分け茶陶の中心地であった京都で、当時好まれていた様式を取り入れよとの意図があったのだと思います。そこで、初代は当時の和様や楽家の特徴に触れ、持ち帰ってその作陶の中で実践しました。具体的に茶碗の形で例を挙げるならば、朝鮮系のやきものは腰が丸く、胴がふくよか。わんなりしています。対して楽家の茶碗は筒型です。また、4代目も楽家で修行を重ね、細工物と呼ばれる置物、型を使う技法などを会得しました。」と話します。初代より伝わる型は今も大事に保管されています。
- 01-02工房の東側斜面にある、明治初期に築かれたとされる登り窯。
江戸時代、三輪窯が位置する近辺のやきものは地名をとって「松本焼」、また隣の長門市近辺のやきものも地名を取って「深川(ふかわ)焼」と呼ばれていました。両地の総称として萩焼の名称が使われるようになったのは江戸時代終わり頃からと云われています。ところが、明治維新で毛利藩の後ろ盾を失った萩焼は苦境に立たされます。社会が急速に西洋化したこともあり、数多くの窯がその火を消しました。「当家でも土や薪が滞るようになったそうですが、私の伯父である10代休雪(休和・人間国宝)がやるべきことをやるという一念で立て直し、今に至っています」。10代は、維新政府の太政大臣になった公卿・三条実美から8代雪山に贈られた揮毫(きごう)「不走時流」を家訓と定め、新たに「不走庵」と号しました。「三条卿は、時代に流されるなと戒めてくれたのでしょう。今も肝に銘じています」。
- 03三条実美による揮毫。
その「不走庵 三輪窯」は「瑞風」の立ち寄り先でもあります。約40年前、京都の宮大工によって建て替えられた数寄屋の座敷で薄茶を喫するのですが、実はその室内に三条卿の揮毫が掲げられています。「表装が少し傷んでいたので修理に出していましたが、先日戻って来ました」。柔和な笑顔で窯の歴史や茶碗に対する思い入れを明かしつつ、乗客訪問の場を和ませるのが三輪先生の役目。「当家では代々が窯印として丸い輪を3つ使います。横一列にしたり、山のように配するのですが、私は色を付けて並べました。赤は炎の色。黄は土の色。グレーは10代休雪が作った稲わらの灰を使う釉薬の色で、「休雪白」と呼ばれています。水に溶くと真っ黒になりますが、乾くとグレーになります。さて、この3つの輪をよ~く見ると何かを思い出しませんか? そう、丸の内線、日比谷線、銀座線のマークですね」といった具合に満座を湧かせます。
- 04京都の菓子司「鍵善」特製、窯印を模した干菓子が瑞風乗客に供される。
- 05-06座敷からは11代がこよなく愛した庭が望める。
- 07写真の茶碗は13代の作品だが、通常は11代の茶碗で抹茶が頂ける。
インスパイアを創作の糧にして
「『茶碗屋の息子』として生まれた私は、土埃の中で伯父と父の壽雪(11代休雪・人間国宝)、母たちが一家総出で仕事をする様子を見ながら大きくなりました。とはいえ、子どもの頃は遊び惚ける毎日で、先のことなど考えていませんでした」。そんな三輪少年の心を動かしたのはアメリカ人の作家でした。
中学1年の夏休み、東京藝術大学に通う兄の龍作氏(12代休雪)から「遊んでばかりじゃいけない。東京までデッサンの勉強に来なさい」と言われた三輪少年は、初めての一人旅を経験します。「あさかぜだったかなぁ、寝台列車に乗って東京に行き、兄が紹介してくれた美術研究所に通って木炭デッサンに勤しんでいました。そんなある日、当時は京橋にあった国立近代美術館で開かれていた『現代国際陶芸展』を観に行ったのです」。そこで目にした、アメリカ現代陶芸の旗手であるピーター・ヴォーコス作の皿に衝撃を受けたと、今までのインタビューなどでも折にふれて語ってきました。「ところが、私が衝撃を受けたのはヴォーコスだけではなかったことが昨年わかりました」。
- 08-09取材時には12代目と共に襲名披露を行った場所でもある床の間に、10代作の獅子の置物と
11代作の掛け軸「龍虎」がそろい踏み。普段は古いものや現代アートの作品等から、
その時々の趣向に合わせて設えがされている。床柱は、普通は低木に類されるスダチ。
建て替え前の屋敷でも床柱として使われていた。三輪家の屋敷が建つ前から植わっていた
野生の木で、代々を見守って来たご神木にも等しい存在。
昭和39年(1964)開催の東京オリンピックを機に、国立近代美術館や石橋美術館などを巡回して開催された「現代国際陶芸展」は、世界各国の陶芸作品が一堂に集められた国内初の催しで、「日本陶芸の敗北」と評される衝撃を与えたと言われています。三輪先生のように刺激を受けた陶芸家の卵や芸術家も多く、近年、岐阜県現代陶芸美術館でその影響を検証する展示が開催されたほど。「そこで気付いたのです。私が衝撃を受けたのはヴォーコスと、イタリア人のルーチョ・フォンタナだったと。この2人のイメージが私の中で合体していたのです。発見でした」。
その体験から11年後、三輪先生はアメリカに渡ります。「島流しならぬ大陸流しと言うのは冗談ですが、やきものの世界に身を置いていても私は萩しか知らない。『世界を見て来なさい』と兄が助言してくれたのです。やきものの伝統があるヨーロッパではなくアメリカを選んだのは、物質文明の最たる国だったからです」と振り返ります。
ベトナム戦争終結の年に、政治的にも経済的にも揺れ動く大国に身を置き、心を震わせるような体験をする中、大きな影響を受けた要素のひとつがカリフォルニアの国立公園、ヨセミテ渓谷から見た、世界一と称される花崗岩の一枚岩「エル・キャピタン」でした。「1000メートル近い垂直の岩壁を目の当たりにして、日本では感じることができない圧倒的な存在感、厳しい自然の中から生じた生命力が脳裏に焼き付けられました」。長年あたためたその畏敬の念を込めた茶碗を数年前から発表しています。
- 10-11茶碗「エル キャピタン」 茶を喫した後の溜まりがクローバーの形に見える茶碗もあるそう。
古い茶室を改装した静謐なギャラリーには、さまざまな作品が並びます。刀を使って削り出した土肌と三輪家伝来の白萩釉(休雪白)のコントラストで迫る茶碗「エル キャピタン」は見る者の心を打ちます。奈良・薬師寺東塔の基壇土を使う茶碗も一部にあるシリーズ「淵淵」は大自然の豊かさを教えてくれます。「丸い茶碗はどこに口をつけても良いんだけれども、角がある茶碗は選ぶ場所次第ではエライことになります(笑)。点てにくいとか飲みにくいとか重いのだけれども、それでも一生に一度で良いからこの茶碗で飲んでみたい、この一碗を自分のものにしたいと願ってもらえるやきものを世に出したい。そんな作家を目指しています」。
- 12-14ぐい呑みや皿から茶碗、花器までが展示販売されているギャラリー。
- 15-16「淵淵」シリーズの内、薬師寺の基壇土で焼成された茶碗。
若き日には40数トンの生土の上に四駆やバイクを走らせ、残した轍の躍動感で魅せる作品を世に問い、陶芸界に鮮烈な印象を与えた三輪先生。「巨大な作品をたくさん作ってきましたが、近年はスケール感を大切にしています。大きい作品でも小さい作品でも、そこに内包される世界が問われる。そこを突き詰めていきたいと思っています」。
- 17両手を広げたほどの大きさがある作品「阿吽」。主屋の前にある作品庫の一画に展示されている。
等身大模型づくりからのスタート
「瑞風」の車内には、「淵淵(えんえん)」シリーズの茶碗が展示されていますが、そのサイズは少し小ぶりです。というのも、三輪先生は「瑞風」運行前から設計図を参考に、実物大の展示スペースを作成。壁の色や材質、床から何センチの高さに作品が配され、乗客はどのような位置から眺めるのかをシミュレーションしました。その結果、普段より少し小さめのサイズで、車体の色に映える休雪白の茶碗が造形されました。
もう1点、「美しい日本を走る列車に花を添えるという意味で花器も焼きました。土の塊をくり抜いた花冠(かかん)です。土が持つ大地のエネルギー、私が追い求めている美意識を感じていただければ幸いです。帰宅後には萩焼の良さを多くの方に伝えてくださることも切に願っています」。
- 18-19ギャラリー内に展示されている「雪嶺」シリーズの一作品。