四季折々の美しい風景、 沿線の歴史・文化を象徴する
工芸や文化財、地元の恵みを生かした美食...。
西日本を巡り、人との出会いを通じて、
「瑞風」の旅を輝かせる “美” を発見します。
岡山
“そのまま”を、このままに
~岡山後楽園というやすらぎの場~
寛永9年(1632)、池田光政公が鳥取から国替えで備前に入り、
維新の世になるまで代々が岡山を治めました。
日本屈指の景勝地である「岡山後楽園」は、そんな備前池田家の象徴。
江戸時代と変わらぬのびやかな風景を守り続ける
所長の信江幸雄さんたちにその魅力をうかがいます。
治水事業の副産物として誕生
光政公の時代、岡山の城下町は、度々の水害に見舞われていたと伝わります。そのため、2代目藩主・綱政公の代にかけて、城下を流れる旭川の洪水対策となる放水路を整備。放水路の完成で城の背後にあった広大な河原が比較的安定して使える土地になったため、綱政公は築庭を命じます。貞享4年(1687)のことでした。
土地の拡大と建物の建設を進めて庭園を整備。元禄13年(1700)に現在とほぼ同じ外形が完成しました。藩主が岡山城から安全に、かつ気軽に足を運べる「やすらぎの場」として造られたこの庭は、簡素な建物とその南側に広がる小山、東側の大半は田畑で構成されていたことが当時の資料からわかっています。田畑が中心であったことから、築庭当初は菜園場(さいえんば)と呼ばれ、やがて城の後ろにあることから御後園(ごこうえん)と呼ばれました。
- 01開放的な眺めが魅力。
- 02大立石と呼ばれる巨石。運べるサイズに割り、園内で元通りの形に組み合わせた。
- 03真中にある大池「沢の池」は、最初は現在の1/3程度の池だったが、次第に大きく広げられた。
この時代、大名たちの間で邸宅や別荘に庭園を造ることが流行しました。広大な敷地を生かし、船遊びができるほどの大きな池、あるいは枯山水の石組みなど、それまでの日本庭園の要素を集大成し、また借景や回遊性など新たな魅力を備えたものでした。
- 04見る場所によって違う光景が楽しめる。
- 05池越しに見る延養亭。
- 06行事の際などに着用する法被が良く似合う、地元出身の信江所長。
現在の岡山後楽園を見守る信江幸雄所長は、「綱政公の時代の後楽園は平面的な構成で、屋敷内に座って眺めを楽しむ庭だったようです」と説きます。その後、3代目藩主の継政公が、園の中央に高さ6mの唯心山(ゆいしんざん)を築き、水路にも手を加えます。今の水の流れはこの頃に定まりました。こうした変化により、現在のような歩きながら景色を楽しむという回遊式の庭園になりました。5代目藩主・治政公の時には藩の財政が逼迫。人手がかかる田畑を芝生に造り変えますが、その後、唯心山の東側に田畑を再開。その一部を井田(せいでん)に整形しました。
- 07-08今の井田ではもち米が栽培されている。収穫後はあられに加工される。
余暇を楽しむ場であり、馬術や弓術鍛錬の場でもあった諸藩の庭は今では「大名庭園」と総称されます。江戸時代には全国の至る所に数多くありましたが、明治維新後、その多くは公園として公開され市民の憩いの場となりました。そうした中、岡山後楽園は金沢の兼六園、水戸の偕楽園とともに、明治期以降、日本三名園と称されるようになりました。
災禍から復活。どの季節も美しい
客人をもてなす場として、時には領民にも公開されてきた御後園は、明治4年(1871)に後楽園と改称。明治17年(1884)には池田家から岡山県に譲渡され、一般公開されるようになりました。
昭和9年(1934)、室戸台風が岡山県を襲います。岡山後楽園にも人の背丈を超える2m近い浸水があり、甚大な被害を受けました。これを受けて、旭川の支流を整備したため、後楽園の敷地は完全な中州になりました。
昭和20年(1945)の岡山空襲では、綱政公が特に好んだ「延養亭(えんようてい)」を始めとする主要な建物を焼失してしまいました。県の宝が被害を受けたことに悲しみながらも人々は立ち上がり、昭和24年(1949)には鶴鳴館(かくめいかん)の代わりとして山口県岩国市から吉川邸を移築。昭和42年(1967)までに一連の復元工事を終えました。信江所長は「明治の建物である鶴鳴館以外は昭和の建築ですが、写真や築庭当時の絵図があったため、特に中心的存在である延養亭は、日本各地から集められた第一級の木材と当時最高の技術によって築庭当時の間取りに復元されました」と、言葉に熱を込めます。内装の資料はなかったため、襖は無地、欄間などもシンプルな意匠になっていることが、かえって想像力をかき立てます。
- 09延養亭全景。右手に連なる茶室の天井には池田遙邨による龍の絵が描かれている。
- 10-12延養亭からの“殿様の眺め”。
入室時は障子が閉められているため、開かれた瞬間には歓声が上がる。
普段一般公開していない延養亭内部の特別公開は春と秋のみですが、「瑞風のお客様には特別に“殿様の眺め”を体験していただきます」と信江所長。床の間を背に、藩主の位置から眺める景色は四季折々、時間によっても趣が変わる、まさに絶景です。
綱政公は、「ここから見える、手をかけていないそのままの景色を好みました。田畑を耕す人々を眺めていると時が経つのを忘れてしまうと日記に書き残しています。」と信江所長は話します。
現在では数少ない見所(けんじょ)=観客席とは別棟になっている能舞台も見学します。能を好んだ綱政公は自ら能を舞うこともあり、家臣の家族や領民にも能を公開しました。その回数156回、延べ7万5000人もが「拝見」したとの記録が残っています。現在の能舞台は昭和33年(1958)に復元。岡山県出身の日本画家・池田遙邨(いけだ・ようそん)が正面の鏡板に描いた立派な老松も間近に鑑賞できます。
- 13ヒノキの板張りがされた能舞台。左手には、舞手が登場する橋掛り(はしがかり)がある。
- 14復元の際、池田遙邨が描いた老松。
「瑞風」専任ガイドのみなさんに、お気に入りの季節や場所を伺いました。岡山県出身、県民の顔ともいえる後楽園を案内できることに喜びを感じると話す藪野知里(やぶの・ちさと)さんは「梅林に始まり、桜、サツキ、ツツジ、順々に花が咲く春は、それは華やか。知る人ぞ知る存在ですが、馬場の桜並木の美しさも格別です」と満面の笑みを浮かべます。
転勤族の夫と共に日本各地を巡り、十数年前からは岡山に住む前池直子(まえいけ・なおこ)さんは、「私は新緑の季節が好きです。特に、園内東側に位置する千入(ちしお)の森はカエデ主体なので秋の紅葉も美しいのですが、青モミジの頃も息をのむ素晴らしさです」と目を輝かせます。
「美しい日本をホテルが走る」をコンセプトとする「瑞風」に憧れてガイドになったと話す和田圭子(わだ・けいこ)さんは、「私は冬の後楽園をぜひ見ていただきたいと思います。凛とした空気の中、園内で飼育されているタンチョウの力強い鳴き声が響くと身が引き締まります」と教えてくれました。
- 15「武芸の場であった馬場は鶴舎の奥。ここの桜は見ごたえがあります」と説明する藪野さん。
- 16「かつて住んだことがある街からお客様が来られると、懐かしくて話がはずみます」とほほ笑む前池さん。
- 17「タンチョウの鳴き声ですか?」と、戸惑いながらも鳴き真似を披露してくださった和田さん。
県民との距離が近い特別名勝
明治から大正へと時代が移るにつれ、借景になっている操山(みさおやま)の麓や東の外周に住宅などが建ち始め、延養亭からの“殿様の眺め”が脅かされるようになりました。このため、昭和15年(1940)に操山を始めとする後楽園周辺を風致地区に指定。さらに昭和60年代に入り高層マンションやビルの建設が目立つようになると、平成4年(1992)に県景観条例による背景保全地区を指定し、借景の存続に取り組みました。明るく開放的な眺めは人々の手と知恵で守り続けられています。
後楽園には数々の年中行事があります。秋口からは特別天然記念物であるタンチョウの園内散策が始まります。「翼を広げると2m以上もあるタンチョウが園内を飛翔する実に雄大な光景で、まさに心が改まります」と信江所長。2月には芝焼き。黄金色の芝が炎とともに漆黒へと変わり、そして春にはまた芽吹きます。
- 18タンチョウは後楽園のアイドル。元日に行われるタンチョウの園内散策は、多くの見物客でにぎわう。
- 19茶畑では、毎年5月の第3日曜に茶摘み祭が行われる。
花の春が過ぎると5月の茶摘み祭が待っています。6月の梅の実収穫、お田植え祭と続き、茶摘みと田植えは、いずれも一般参加が可能です。「摘んだ茶葉は、緑茶と紅茶に加工。収穫した梅の実は梅酒や梅ジャムに、もち米はあられになります。いずれも『お庭そだち』という後楽園のブランドで、園内の茶店などで販売しています」と専任ガイドさんたちが教えてくれました。
桜の季節や中秋の名月観賞会では、お弁当を食べながら観賞する人々でにぎわいます。300年の時を超えて愛され続ける、開かれた庭園は、今も昔も県民の誇りです。